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一本の綱



シーマンシップ

 船乗りにとって最も重要なシーマンシップという概念がある。海で安全に活動するための航海術を身に着けるという技術的なことのほか、人命を尊重するマナーや心がけでもある。海に生きる者にとって掟(おきて)ともいえるその精神は高潔で、救難信号を受ければ、近くにいる船は何をおいても迅速に現場に向かい、困難にあっても人命救助を優先とする。

 その精神をもって、能登半島地震で被災した漁師たちを救おうと立ち上がった男がいる。石川県能登町小木出身の坂本成昭さん(80歳)だ。国立七尾海員学校を卒業し、外国航路の船に12年乗った。その後は、大阪港の港運会社に転籍し、船舶の運航管理や安全確保をする海務監督の管理職を38年務めた。実直な仕事ぶりが評価され、定年後は大阪港の海運会社に勤務し警戒船業務を担った。半世紀以上も海の仕事に携わったスペシャリストだ。


▲坂本成昭さん

▲津波で打ち上げられた漁船=2024年1月23日、珠洲市宝立町の鵜飼漁港


仕事つくってやるぞ、がんばれ!

 能登半島地震発生時は兵庫県三田市の自宅にいた。地震発生から3日後、実家の隣に住む漁師の甥とようやく連絡がつき、実家や故郷の被害の大きさを知った。甚大な被害を伝える連日のニュースに心が痛んだ。とりわけ、津波で船を失い、地盤隆起による被害で港が使えなくなり、仕事を失った漁師たちのことが気になった。「海の仲間が困っている。何とかしたい」その一心を直ちに行動に移した。思いついたのが、被災した漁師に警戒船の業務に就いてもらい、漁再開までの仕事をつくるという考えだった。これなら自身の経験を活かし道筋をつけられるのではないかと思った。警戒船とは、河川や港湾工事の際に近くを航行する船の監視、安全配慮を行う船のことだ。わかりやすく言えば、道路工事現場で交通整理をする誘導員と同じだ。地元の海を知る漁師たちに、自分たちの港の修復に携わってもらう。被災を免れた漁船を活用することも可能だ。妙案だった。甥には「おっちゃんが何とか仕事をつくってやる。がんばれ」と伝えた。

▲津波で打ち上げられた漁網や船の片付けをする漁師=2024年2月14日、珠洲市三崎町の三崎漁港


人の助けを得て

 だが、事はそう単純ではなかった。警戒船というものを知らない漁師たちは、本当に自分たちが日当をもらって仕事に就けるようになるのかと、半信半疑のものも多くいたという。また、警戒船業務に就くためには、海上保安庁が開催する講習を受けなければならない。まとまった人を集められれば講習会を開くことも可能だが、どこで講習会を開くのか、どうやって人を集めるのか。課題は山積みだった。手弁当で石川県に何度も通い、行政機関や海上保安庁、漁業組合を訪ね、頭を下げ説明して回った。漁に出られない漁師たちのことが頭から離れなかった。地震発生から5か月が過ぎたころ、七尾海上保安部から講習を開催できると連絡が入った。熱意がようやく実った。  震災から間もなく半年という6月22日に、珠洲市内での講習開催が決まった。すぐさま受講者の募集を始めたが、被災した漁師のほとんどが避難のため地元を離れていて連絡がつかない状況だった。一人でも多く声をかけるため、知人や同級生のほか、顧問を務める関西珠洲会の人脈も頼った。坂本さんの熱意にうたれ「自分ができることは」と、だれもが協力を惜しまなかった。忙しい仕事の合間を縫って、募集ポスターを作成してくれた人もいる。地元の同級生は、スーパーや商店を訪ね、チラシを張ってもらうお願いをして回った。迎えた講習日、珠洲市と能登町から集まった50名の受講生で埋まった会場を見て、海保職員は「短期間でよくここまで集めた」と驚いた。「目標の30名を超え、ほっとした。地元の皆さんや珠洲会のメンバー、海保の協力が本当にありがたかった」と坂本さんは当時を振り返る。

▲警戒船講習会には50名の漁師らが集まった=2024年6月22日珠洲市飯田町の珠洲商工会議所


男、坂本奮闘する

 能登の地震がなければ、昔の航海を時おり思い出しながら、静かな余生を過ごしていただろう。だが、地震の被害を受け苦境にあえぐ故郷を思うと、坂本さんの男気はそれをよしとしなかった。警戒船業務に必要な備品を買いそろえるため、クラウドファンディングにも挑戦した。高齢の坂本さんにとっては、簡単なことではない。パソコンと向き合う日々が続いた。被災した漁師に思いをはせ、寄せられた善意の心がうれしかった。支援者の中には、かつての職場の同僚や部下が多くいたという。

 警戒船の受講が終わると、次は職探しに駆け回った。港湾工事を請け負う可能性がある会社を回り、「漁師に仕事を下さい」と頼んで回った。なかなか港湾復旧工事開始の目途が立たず警戒船業務の依頼はない。それでも何とか生活支援の確保にと、珠洲市の飯田港で行われていた瓦礫の積み出し作業の仕事を取ってきた。受講者のうち、若い順から現場に通うことのできる12名を選び従事させた。何とか収入を得させてあげたかった。


▲警戒船講習会であいさつする坂本成昭さん


一本の綱のように

 今年の6月2日、富山湾を望む小木港の海は静かで青かった。買いそろえたばかりの真新しい救命胴衣を身に着けた坂本さんの目も、この海のように穏やかだった。視線の先には舳先に着けられた真っ赤な「警戒船」の旗がはためいている。震災から1年5か月が過ぎ、いよいよ坂本さんの思いが船出する。「成昭、お前が故郷のために一番頑張ってくれたな」旧友にそう言ってもらえたと、照れくさそうに坂本さんは笑った。

 立ち上げた警戒船業務の団体名は「NPO とも綱会」。現在15名が所属している。とも綱とは、船の艫(後部)と岸をつなぎ、船出の時には「行って来い」と、最後に離す綱だ。警戒船業務に従事し再び海に出る漁師たちへ、そんな思いを込めて名付けた。

 人と人をつなぐ一本の結びつき… 人はそれを絆と呼ぶ。



▲故郷の海を見てほほ笑む坂本成昭さん=石川県能登町の小木港




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みんなして、やっぞ復興!

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